2009年06月25日

イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した

9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアルンヘムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせる事は不可能になった。

またこの頃、ドイツ軍はかねてから開発中だった、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262やジェット爆撃機アラドAr234、同じく世界初の飛行爆弾V1飛行爆弾、次いで世界初の超音速で飛行する弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化させ、ロンドンやイギリス本土及びヨーロッパ大陸各地の連合軍に対し実戦投入したものの、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるには至らなかった。

10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした。[11]

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その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルグの森林地帯アルデンヌ地方で、西部戦線における最後の反攻(バルジの戦い)を試みる。ドイツ軍の、少ない戦力ながら綿密に計画された反攻計画が功を奏し、冬の悪天候をついた突然の反撃により、パニックに陥った連合軍を一時的に約130km押し戻した。しかし、連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされる。

なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。


2009年06月10日

参加兵力・日本海軍

第一航空艦隊 - 司令長官:南雲忠一中将、参謀長:草鹿龍之介少将
第一航空戦隊 - 南雲長官直率、空母「赤城」「加賀」
第二航空戦隊 - 司令官:山口多聞少将、空母「蒼龍」「飛龍」
第五航空戦隊 - 司令官:原忠一少将、空母「瑞鶴」「翔鶴」
艦載航空機350機(零式艦上戦闘機78機、九九式艦上爆撃機129機、九七式艦上攻撃機143機)
第三戦隊 - 司令官:三川軍一中将、戦艦「比叡」「霧島」
第八戦隊 - 重巡洋艦「利根」「筑摩」
第一水雷戦隊 - 司令官:大森仙太郎少将、軽巡洋艦「阿武隈」
第一七駆逐隊 - 駆逐艦「谷風」「浦風」「浜風」「磯風」
第一八駆逐隊 - 駆逐艦「陽炎」「不知火」「秋雲」「霞」「霰」
第二潜水隊 - 司令:今和泉喜次郎大佐、潜水艦「伊19」「伊21」「伊23」
第一補給隊 - 司令:大藤正直大佐、油槽船「極東丸」「健洋丸」「国洋丸」「神国丸」
第二補給隊 - 油槽船「東邦丸」「東栄丸」「日本丸」
特殊潜航艇5隻(甲標的5隻)他

アメリカ海軍
太平洋艦隊 - 司令長官:ハズバンド・キンメル大将
戦艦8隻(「カリフォルニア」「メリーランド」「テネシー」「アリゾナ」「オクラホマ」「ウエストバージニア」「ペンシルベニア」「ネバダ」)
重巡2隻(「ニューオーリンズ」「サンフランシスコ」)
軽巡6隻(「デトロイト」「ホノルル」「セントルイス」「ヘレナ」「ローリー」「フェニックス」)
駆逐艦30隻
その他48隻
カタリナ哨戒機14機
基地航空機399機
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

損害
日本海軍
空襲部隊:未帰還機29機、損傷74機、戦死55
特別攻撃隊:甲標的 未帰還5隻、戦死9(岩佐直治大尉[7]など)、捕虜1(酒巻和男少尉)

アメリカ海軍
戦艦
ネバダ:被雷1、被弾5、至近弾2。擱座。1942年4月22日サルベージ作業終了。1942年12月修理改造終了。
オクラホマ:被雷5。転覆、沈没。1943年浮揚、1944年除籍。1947年サンフランシスコへ移送中沈没。
ペンシルベニア:ドック内で被弾1。修理の際にオクラホマとアリゾナから取り外した主砲を搭載し、1942年3月艦隊に復帰。
アリゾナ:被雷1、被弾8。800kg爆弾の命中による弾薬庫(火薬庫)の爆発で艦体切断・沈没。サルベージ中止。引き上げ可能な装備を引き上げの後、除籍。その後1962年以来記念艦として在籍し現在に至る。
テネシー:被弾2(不発弾1)。損害は軽微だったが、修理と同時に大改装を施して艦隊復帰。
カリフォルニア:被雷2、被弾1、至近弾1。着底。1942年3月浮揚、1944年5月修理・大改装終了。
メリーランド:被弾2。1941年12月21日、応急修理終了。本格修理の後1942年2月艦隊に復帰。
ウエストバージニア:被雷7、被弾2(不発弾)。着底。1942年5月サルベージ作業終了。修理・大改装を実施し1944年7月に艦隊復帰。
駆逐艦
カッシン
ダウンズ
標的艦
ユタ:被雷2。沈没

2009年06月06日

アナログ式: 長針と短針を組み合わせた針式

アナログ式: 長針と短針を組み合わせた針式、長針1回転が60分、短針1回転が12時間。
レギュレータ: 長針・分針(あれば秒針も)がすべて同軸にない(文字盤に3つの目盛りがある)もの。機械式時計の基本原理としてはこの形態になる(#機械式時計の項参照)。
2針式: 長針・分針が同軸(秒針が付いていても同軸でないもの)。レギュレータに歯車を1個追加して分針を駆動している。
3針式: 秒針が長針・短針と同軸にあるもの。2針式の機構に歯車を1?2個追加して秒針を駆動している。
その他文字盤に多数の目盛りが追加され、クロノグラフ(秒・分・時)やカレンダーが針で表示できるものもある。日付や月齢などは回転する板を穴からのぞくようにして文字盤地板に表示するものも多い。
デジタル式(数字で直接表示)
液晶表示
蛍光表示管表示
文字盤が回転するもの(1980年代までのデジタル置き時計)
一般的には12時間表示が多い。アナログ式はほとんど12時間表示(短針が12等分されている)であるが、デジタル式は24時間表示のものもある。電子的に表示するものでは12時間と24時間を切り替えられるものもある。


原理別 [編集]
日時計
水時計(漏刻)
砂時計
火時計
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火時計 [編集]
最古の火時計はろうそく時計で、西洋では西暦900年ころまでもちいられた。当時のろうそく時計は長さ12インチで、1インチごとに印をいれて火を点じ、1インチの蝋のもえつくす経過から時を知るようにしてある。目盛りには白い角の粉を透明なほど薄く煉って、文字を溝のようにほり、それに塗りこんだ。日本でもこの法に準じて時を計った時代があった。

ついでランプ時計はスペインのフェリペ2世の室に夜間時をしめすのにもちいられたものが最初であるといわれる。 ガラス製の油入に目盛りをきざみ、時間を計るしかけで、近世までドイツ、オランダで使用された。

振り子時計
音叉式時計 -
音叉を参照

クォーツ時計(水晶時計)
電波時計 : 標準電波を受信して時刻を合わせるクォーツ時計(GPS衛星による時刻合わせをするものもある)
原子時計

時間区切り [編集]
日長により変化する - 不定時法:和時計など。
年中基本的に一定 - 定時法:現代の時計

形態 [編集]
腕時計 : 腕にバンドで取り付けて持ち運ぶもの。
懐中時計: 鎖で衣服に取り付け、ポケットに入れて持ち運ぶもの。
ナースウォッチ: 防水機構が進歩していなかった時代に、頻繁に手を洗う看護師がすぐに時刻を見られるよう6時側(12時側ではなく)に短い鎖を取り付けてあり、反対側にはピンがついていて、胸につけるようになっている。防水腕時計が当然になった現在でも、患者に怪我をさせないよう手に金属製品をつけない要請から一部で使用されている。
置き時計: 棚や机の上に据え置くもの。
クロノメーター: 航行する船舶内で正確に時刻を刻めるように、ケースに収められたり水平を保つ台座に取り付けられたりしている時計。
掛け時計: 壁に掛けて使用するもの。
柱時計: 掛け時計が大きく重かった時代には柱に取り付けていたためこの名がある。
親子時計 : 親時計からの30秒ごとのパルス信号で子時計を駆動するシステム。
からくり時計: 毎正時などに、装飾が動いて時刻を知らせるもの。
鳩時計: 鳥を象った木像が飛び出して鳴き声を模した音を出し、その数で時刻を知らせるもの。
花時計: 主に屋外に設置される、花壇と一体となった時計をさす。
バーバークロック: 針が逆回転し文字も裏返し文字となっており、鏡に映したときに正しい表示になる時計。理容店等前面が大きい鏡で覆われて時計を置くスペースがない場合のために製造されたことからこの名がある。
など

2009年04月23日

軍事貴族

軍事貴族(ぐんじきぞく)とは、日本の古代後期から中世最初期にかけて出現した軍事専門の貴族をいう。成立期の武士の母体となった。桓武平氏、清和源氏、秀郷流藤原氏などが代表的な軍事貴族である。

軍事貴族の概念は戸田芳実による軍制史研究によって広まったとされている。この概念が登場した背景として、1970年代以降、王朝国家論を巡る議論の中で、在地の農民層から武士が生まれて貴族の荘園支配を打倒していったとするそれまでの解釈への批判が強まったことがあげられている。こうした古代・中世史研究の深まりとともに、農民ではなく貴族に武士のルーツを求める見方が生まれ、両者を繋ぐ概念として提起されたのが、軍事貴族である。

前史
律令国家が建設される以前の古墳時代・飛鳥時代においても、軍事を主務とする豪族が存在した。当時、ヤマト政権内において特定の職務を担当する同族集団、すなわちウヂが存在しており、その中で軍事を担当するウヂに物部氏や大伴氏があった。

しかし、7世紀後期に形成していった律令制は、官僚制を原則としており、ある氏族が特定の官職を世襲することを否定した。律令に基づいて各地に軍団が設置されると、物部・大伴両氏に代わって軍団が軍事を担うこととなった。

その後、軍団は8世紀末から9世紀にかけて廃止され、軍事動員を必要とするときは、国衙から太政官へ上申し、太政官から「発兵勅符」を得た上で、国衙が国内の各戸から兵を徴発したり健児を動員するという方式で対応していた。常置の国家正規軍は存在しておらず、必要のあるときのみ、臨時の正規軍が編成される仕組みとなっていた。

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9世紀末頃になると、百姓らの偽籍・浮浪・逃亡が顕著となり、軍事動員の対象となるべき百姓を各戸ごとに把握することが困難となった。さらに、東国において群盗の横行が常態化するようになっていた。

軍事貴族の成立
寛平・延喜年間(9世紀末期-10世紀初期)になると、板東において、中央へ進納する官物を強奪するといった「群盗蜂起」が頻発した(僦馬の党・寛平・延喜東国の乱)。朝廷はこれに対処するため、受領(現地国司の最高位者)に広範な軍事上の裁量権を認める制度改革を行った。具体的には、単に兵動員を許可する「発兵勅符」に代わって群盗を積極的に鎮圧しようとする「追捕官符」を発出するとともに、国単位で押領使・追捕使を任命して、国内の武勇者を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入ることを義務づけたのである。この軍制改革は、地方に権限を移譲するという意味で、まさに当時その緒についていた王朝国家体制への転換改革と軌を一にするものだった。

この時期に群盗追討で名を馳せたのが、平高望、源経基、藤原利仁、藤原秀郷ら、没落した下級貴族である。彼らがこうした軍事力を発揮出来た背景には、彼らの父祖の世代が受領に任ぜられた際、狩猟文化を背景に持つ俘囚の武芸を学んでおり、それを基礎とした新式の武芸を編み出していたとする議論(下向井龍彦)が唱えられている。彼らは国司や押領使として勲功を挙げるとともに、赴任した地方に土着して国衙から公田経営を公認されるなど、自らの軍事力を維持出来るだけの経済基盤を築いた。しかし、朝廷の彼らに対する処遇は必ずしも彼らが期待したほどではなく、彼らの間には次第に不満が蓄積していった。940年前後に発生した承平天慶の乱は、このような不満の実体化であった。同乱の叛乱側、追討側いずれも延喜期に勲功を挙げた者たちの子孫である。

承平天慶の乱の鎮圧・追討に勲功のあった者、すなわち承平天慶勲功者の大半は、貴族の血統に属するとはいっても、極めて低い官位にある中下級の官人であった。しかし朝廷はこの時、彼らの間の不満が乱の原因になったとの認識のもと、彼らを五位・六位といった受領級の中・下流貴族に昇進させた。この結果、10世紀後半の貴族社会において、承平天慶の乱の勲功者とその子孫たちは軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになった。

軍事貴族ないし武士の母体となったのは、こうした兵の家の者たちであったというのが、現在最も有力な学説である。ただし、彼らの子孫すべてが軍事貴族・武士へ成長した訳ではない。当時はまだ家業の継承・固定化が成立しておらず、兵の家としての認知はいまだ流動的でもあった。

11世紀に入ると、ある家系が特定の官職を世襲する「家業の継承」または官司請負制が貴族社会内で次第に確立されていった。こうした流れの中で、兵の家の中から軍事を専門として従事する家系が固定化していった。彼らの多くは六位どまりの侍身分の技能官人であったが、上層階級の者は諸大夫身分の一角を占めて四位・五位クラスまで昇り、受領級の官職に任命されるようになった。これが軍事貴族の成立である

2009年04月19日

アジアNIESの成長とアジア通貨危機

ラテンアメリカ諸国が対外累積債務問題でハイパーインフレーションに苦悩する中で、東アジア各国では、経済成長を遂げる国が現れてきた。雁行型経済発展理論と呼ばれる理論で注目され、経済発展面で先頭を行く日本を「アジア四小竜」・「アジアNIES」の韓国、シンガポール、台湾が追撃し、さらに、タイ、マレーシア、インドネシアが続いた。

韓国は、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げ、1988年のソウルオリンピック、1993年には大田国際博覧会を開催し、東アジア経済の中での存在感をアピールすることに成功した。韓国の経済発展には、朴正煕、全斗煥、盧泰愚といった軍人出身者の大統領が続いたものの、政治的には安定しており、盧泰愚の時代には、民主化が進展していった。また、世界を代表するサムスングループ、LGグループといった企業グループが登場した時代でもあった。

台湾もまた、オイルショックで産業転換を迫られ、エネルギー効率が高く、かつ、低汚染、高付加価値の産業への転換を行っていった。1979年に「十年経済建設計画」を策定し、機械、電子、電気、輸送機械を戦略工業にすえ、台湾セミコンダクター(TSMC)などの世界企業が登場した。1980年代から1990年代の台湾政治は、蒋経国、李登輝といった中国国民党の総統政権が続いていたため、政治的に安定していた。
シンガポールの場合には、経済成長に至るまでの過程が韓国とは異なり、半島部マレーシアという市場を1965年の独立で失い、国家存亡の危機に直面していた。リー・クアンユー首相は、給与の一部を強制的に貯蓄させ、その資金をもとに、国内企業の育成を進めるとともに、19世紀以来からの中継貿易をさらに進化させていった。また、ジュロン島などに工場を誘致することで、日本に次ぐ工業国へ発展させていった。

1949年に、中華人民共和国が成立するとイギリスの植民地のまま残っていた香港も、本土とは別の経済発展を遂げるようになった。上海などから戦前の中国経済を支えてきた資本家が流入し、欧米などから新しい製造設備を導入し、繊維産業やプラスチック加工業などの軽工業が発達していった。1984年に香港の返還が決定すると、中国本土では、鄧小平による改革開放路線の経済政策も相俟って、香港は華南経済圏の拠点となった。香港に隣接する深圳市は中国を代表する経済特区として急成長を遂げるようになった。

これら、アジア四小竜と呼ばれる国々にキャッチアップする形で、マハティール・ビン・モハマド首相は、「ルックイースト」を唱えた。マレーシアは、1985年に戦争終了後初めて、マイナス成長を記録するとこの経済的苦境を脱するために、外資の積極的導入を図った。その結果、電気・電子製品や自動車産業の振興、貧困の撲滅に成功した。さらに、プトラジャヤやサイバージャヤと呼ばれる大規模なインフラストラクチャーの建設に邁進することとなった。統一マレー国民組織の政権もまた、他の国と同様に、長期政権であり、政治的に安定していた。

ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ

とはいえ、これらの国々の経済発展に問題がなかったとは到底言い得ない。1985年のプラザ合意以降、円高が進捗し、その結果の日本円を含めた外貨のアジアへの流入だった。したがって、それぞれの国が7から8パーセント以上の経済成長を達成する中で投資物件が限定されていたため、工業開発のみならず、集まった資金はリゾートや不動産物件にも向かっていった。また、アメリカ・ドルとそれぞれの国のアジア通貨は、固定相場制が維持されていたが、1995年以降の「強いドル政策」が採用されるようになり、アジア各国の通貨が上昇するとともに輸出の伸び悩みが見られるようになった。したがって、慢性的な経常赤字になっていった。

さらに、アジア各国の政権は一党独裁の性格が強かった。そのため、政治的に安定している点が積極的な外資の導入を可能としたが、その反面、長期政権は、政治的腐敗と相次ぐ汚職が見受けられるようになった。フィリピンのマルコス政権こそ1986年に発生した人民革命によって打倒されていたが、それ以外の国々は、シンガポール(人民行動党)、韓国(民主正義党)、台湾(中国国民党)、インドネシア(ゴルカル)では開発独裁が継続していた。経済成長が続く中で、民主化の動きも胎動していた。

ジョージ・ソロスをはじめとするヘッジファンドがアジア通貨の貨幣が過大に評価されていることに着目し、タイ・バーツの空売りを実施した。タイ政府は、保有していた外貨によって、バーツの買い支えを実施したが、買い支えきることはできず、アジア各国では次々と経済危機が起きた。同時に、それぞれの国では政情が不安定になり、インドネシアでは、スハルトが退陣する事態にまで発展した。

冷戦の終結とソ連の崩壊 オイル・ショック後のソ連は、西側での急激な技術革新にも的確に対応することができず、軍需産業が突出する不健全な経済、国民の自由が認められない政治体制などの諸矛盾が蓄積されていった。とくに1979年のアフガニスタン侵攻ではソ連社会の動揺を示し、1985年に就任したミハイル・ゴルバチョフ書記長はペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)の推進が始まると冷戦構造は徐々に終焉を遂げていった。ゴルバチョフ書記長はペレストロイカとグラスノスチの推進のため大統領制を採用したが、1986年のチェルノブイリ原発事故ではソ連の体制の行き詰まりがさらに露呈されることとなった。

1989年にソ連は東欧諸国の内政に干渉しないと表明し、ポーランドではレフ・ヴァウェンサが連帯を組織し、合法化に成功し(ポーランド民主化運動)、ハンガリーとオーストリアの国境が開放され、東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が市民によって破壊され、ビロード革命などソ連の衛星国だった各国でも東欧革命が起こり、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領が地中海のマルタで会談して冷戦の終結を宣言した。1991年、ソ連8月クーデターが失敗し、バルト3国が独立を宣言、同年、ボリス・エリツィン大統領が指揮するロシア連邦が成立してソ連は崩壊し、15の独立国に分裂した。

2009年04月04日

待った

待った(まった)とは、勝負事において、相手の行動に対して満足な状況でないことによりやり直しを要求する状態である。

相撲用語で力士が立合いで息が合わず勝負開始が成立しないことを指す。力士自身が身振り手振りで待ったを示す場合と、手つき不十分で行司が待ったをかける場合があり後者は「行司待った」と呼ばれる。取組中にも、廻しが緩んだり力士が出血をした場合、相撲に動きがなくなると行司が待ったをかけることがある。通常前者を「廻し待った」と呼ぶ。

囲碁や将棋では相手の次の手を見て、それが自分が困る手の場合にもう一度前回の自分の手まで戻って指し直しをすることを求める場合に「待った」という。これは正式にはルール違反である。

以下に相撲の場合を述べる。

概説 [編集]
本来は相撲の立合いには時間制限がなかったから、互いの息が合うまでは待ったをしてよかったが、大相撲などにおいては現在では制限時間が設けられている。そのため、逆に制限時間内では始まらないのが当たり前になっている。したがって、普通に「待った」として取り上げられるのは、制限時間以降のことである。大相撲では制限時間一杯になると行司が「待ったなし!」「待ったありません!」と声を掛ける。

それ以降は、原則としては立つ(相撲を始める)必要があるから、特別な理由で待ったをする場合、はっきりとした意思表示が必要である。普通は待ったをする力士が前に片手をあげることで意思表示し、行司がこれを認めて相撲を止めることで成立する。時に待ったをしたつもりで相撲を止めたが行司が立合い成立を認め、そのため相手に一方的に押し出され、負けとなる例がある。

制限時間に立てない理由は様々であるが、よく言われるのは制限時間内で見合う際に呼吸を合わせることをしない、という点である。まだ立たなくてよい、とおざなりに見合っていては、本番時にうまく息が合わない、いつでも立つつもりで見合うべきだと言われる。双葉山や大鵬は1回目の仕切りから立てるように仕切っていたと言われ、実際に奇襲のつもりで時間前に仕掛けてきた力士を一蹴したことがある。

これとは別に、相手の気勢を削ぐために待ったをする場合がある。待ったの起源(「大相撲「待った」の由来」の項参照)がこれであるとも言われているが評判のいい作戦ではない。

待ったが増えた場合には立会のそのような真剣さが問われたこともあり、待ったを減らすために、1991年9月場所から仕切りの制限時間(幕内4分・十両3分)を過ぎてから待ったをした幕内・十両力士に罰金(幕内10万円・十両5万円)が科せられていたが、1998年9月場所限りで廃止された。

大相撲「待った」の由来 [編集]
立合いの時「待った」をかける力士がいるが、昔は「待った」というルールはなかった。行司が軍配を引くと、どんな場合でも必ず立合わなければならない。ところが「待った」が初めて登場するのは享保時代(1716?1735年)。無敗の大関初代谷風梶之助を、何とかして負かしたいという関脇八角楯之助が、紀州の名行司尺子一学に「立ち合いは、いくら苦しくともよくこらえて立つべき」との教えを守り、谷風との対戦で「待った」を連発、焦らし戦法でようやく宿敵に勝った。これが「待った」の始まりとされているが、戦略的にはこれ以前にもあったという説もある。

その他 [編集]
重要なイベントなど切羽詰っていることを「…まで待ったなし」と表現する。
囲碁や将棋で、一度指した手を指し直すこと。ハガシ。公式ルールでは即座に反則負け。加藤一二三はこれで処分を受けたことがある。縁台将棋などではごく普通に行われる。パソコンソフトの囲碁や将棋では「待った」機能がついている例もある。上達のためには待ったをしないことが重要であるといわれる。
スポーツやなどで、相手に優勝がかかる試合などで勝利した場合に「待ったをかけた」という表現がされることがある。

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2009年03月20日

鉄道国有化後

1907年(明治40年)3月 新橋駅?下関駅間に直通の急行列車である5・6列車を設定。全区間所要時間は上下それぞれ26時間55分・28時間45分であった。
1912年(明治45年)6月 新橋駅?下関駅間に、日本初となる「特別急行列車(特急列車)」の1・2列車が運行を開始した。この列車に乗るには乗車券の他に特別急行券を必要とし、山陽本線では初の有料速達列車となった。新橋?下関間の所要時間は上下がそれぞれ25時間8分・15分であった。
1919年(大正8年)8月 東京駅(1914年<大正3年>12月に開業し、新橋駅に代わる東京のターミナル駅となった。)?下関駅間にそれまでの食堂車が高級な「洋食堂車」であったのに対し、大衆向けの「和食堂車」を連結した急行列車である、3・4列車が設定される。
1923年(大正12年)7月 東京駅?下関駅間に、それまでの特急列車であった1・2列車が一等車・二等車のみの編成だったのに対して、大衆が利用していた三等車のみで編成された特急3・4列車が新設される。食堂車も1・2列車が洋食堂車だったのに対して、3・4列車は和食堂車だった。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

戦前黄金時代 [編集]
1929年(昭和4年)9月 1・2列車に「富士」、3・4列車に「櫻」という愛称が付けられた。これが日本における「列車愛称」の始まりである。
1930年(昭和5年)10月 「富士」・「櫻」ともに大幅なスピードアップが図られる。
1934年(昭和9年)12月 山陽本線の麻里布駅(現、岩国駅)?櫛ヶ浜駅間のルートは、それまで海岸沿いの柳井駅を経由するものであったが、 この時山沿いを経由する路線(岩国駅(現、西岩国駅)・周防花岡駅経由、現在の岩徳線ルート)が完成して同経路が新しく「山陽本線」とされ、旧ルートは支線の「柳井線」となった。これに伴うダイヤ改正では特急「富士」・「櫻」は新ルート経由となったが、急行列車は新ルートの線路容量が単線で少ないことや、勾配が若干急であること(最大10‰(パーミル)、1000mあたり10mの高低差)、港町であった柳井の重要性が未だ高かったことなどから、全3往復の内1往復は柳井線経由で残された。またこの時東海道本線や長崎本線でも大幅なルート変更が行われており、日本各地のどの優等列車も軒並みスピードアップされた。そしてこの頃が、戦前の鉄道黄金期であった。この改正当時の山陽本線優等列車の概要は、下記の通りである。
特急列車 下記の2往復。
「富士」 東京駅?下関駅間運転。この改正でそれまでの一・二等車のみであった編成を改め、三等車が連結されるようになった。しかしながら高級列車であることは変わらず、また満州からロンドン・ローマに至るまでの国際連絡運輸の一環をなす列車でもあったため、最後尾には一等展望車が連結されるなど、日本の威信を象徴するような設備・装飾が施されていた。
「櫻」 東京駅?下関駅間運転。この改正でそれまでの三等車のみであった編成へ、二等車が新たに連結されるようになる。
急行列車 3往復設定。いずれも東京駅?下関駅間の設定で、1往復(9・10列車)は山陽本線内で夜行運転、残り2往復(5・6列車、7・8列車)は昼行運転であった。うち7・8列車と呼ばれる1往復は、「富士」同様国際連絡運輸の一環をなしていて、山陽本線の優等列車では「富士」以外では唯一の洋食堂車を連結し(他列車はすべて和食堂車)、一等展望車も連結していた。また下りの5列車と上りの8列車は、前述した柳井線を経由する列車であった。
1935年(昭和10年)11月 呉線の三原駅?海田市駅間が全通し、急行7・8列車が同線経由となる。以後呉線は、山陽本線が瀬野駅?八本松駅間に22.6‰(1000mあたり22.6mの高低差)の「瀬野八」と呼ばれる急勾配区間を抱えていて、補機(補助機関車)を必要とするなど輸送力の障害となっていたことなどから、同線のバイパスルートとしての役割も担う事になった。

2009年03月05日

智天使

智天使(ちてんし、ヘブライ語ケルブ(ケルーブ) ??????? k?rû?、複数形ケルビム (ケルービーム) ?????????? k?rû?îm、 ギリシア語: χερούβ、複数形 Χερουβείμ, χερουβίμ、ラテン語 Cherub, 複数形 Cherubim、英語Cherub、複数形cherubim又はcherubs)は、天使の一種。偽ディオニシウス・アレオパギタに由来する「天使の階級」では第二位に位置づけられる。

旧約聖書の創世記によると、神はアダムとイヴを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた。
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という。

「彼はケルブに乗って飛び、」(サムエル記下22章11節)「主はケルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる。

ケルブの起源をアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」とする説がある。

転写「ケルビム」「ヘルヴィム」
日本のキリスト教教会では大抵「ケルビム」と呼ばれ、日本聖書協会も「ケルビム」との表記を用いているが、日本ハリストス正教会では「ヘルヴィム」(明治時代の文献では『ヘルワィム』と書いてヘルウィムと読ませていたものが多数存在する)と呼ばれている。いずれもギリシャ語転写の"Χερουβείμ"が基になっているが、こうした違いが発生したのはギリシャ語発音が時代によって変化した事に由来する。

ギリシャ語表記"Χερουβείμ"は、古典再建音では「ケルーベイム」であり、中世以降の発音は「ヘルヴィム」である。前者を西方教会が継承し、後者を正教会が継承した。これらの転写の違いが日本においても、教派ごとに異なる片仮名表記に結果している。

旧約聖書によるとケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。・・・その顔は"人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔"を持っていた。・・・生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。・・・ケルビムの"全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた"(知の象徴)・・・ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)・・・・またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている。

なお絵画表現において、セラフィムと混同されて描かれているものもある。

フィクションへの影響
ケルビモン:デジタルモンスターのうちの一体。智天使型デジモン。白と黒の二種類が存在する。
ケルビム兵:創聖のアクエリオンに出てくる敵の人型兵器。
ケルディムガンダム:機動戦士ガンダム00に登場する第三世代ガンダムの内の1機。形式番号GN-006、射撃戦を得意とする。

2009年02月13日

HoneyComing

「鳴鐘町」に暮らす受験生「緒方光一郎」は、成績があまり良くなかったことにより進学先の学校がなかなか決まらなかった。そんな彼は父親が勝手に願書を出してしまったことで、最近まで女子校だったというある学園になりゆきで入学することとなる。

―私立「愛嬌学園」、通称「バカップル学園」と呼ばれるそこは男女交際のノウハウをシミュレートする「恋愛授業」があるという世にも奇妙な学園だった。しかも光一郎の幼馴染である「朝陽」、義妹の「未央」、男友達の「薫」や「政則」といったおなじみの面々までもが一緒に入学することになっており…。

愛嬌学園ではかつての女子校「愛嬌女学園」だった時代から伝統的に男女交際の作法を学ぶ「恋愛授業」が週3回の必修科目として実施されてきた。授業では毎回二人一組のペアを作り、共に会話したり料理を作ったり、食事をするなどして進められる。実技のみの授業であり筆記による試験などはない。
セレン ケース ルージュ データ スワップ スーパー オルグ マスイブ 碁の杯 ズッキーニ プルト ディレ ポーリア デーリー タイプ ドラゴン パスヒ バットレス ギムレ ピート トウヨ リッドカ コリー いちい パネル メタセ バンダ リファレ ブラーフ ドリティ かみいそ ひけつ ノクロス オブジェキ ヒットソ ピア ポール フルスケ ハネウェル バウチ ロスペクト レッサー アクセス ソンク ばいせん シーランド フリース しぶし レシピ ハイビ

恋愛授業では通常の授業時のクラスとは異なり、本校・付属校の全6学年の生徒全員をシャッフルし、新たに40人ずつの組に分けた特別クラスにより行われる。光一郎、朝陽、未央、薫、政則の5人は通常クラスだけでなく特別クラスでも一緒であり、特別クラスではこの他に麻里乃、クレア、由馬、弘子らも加わっている。

授業では一つのクラスにつき、女性と男性の教師各一人ずつが担当となる。光一郎のクラスでは苺と司である。

登場人物
声:PC版キャスト/PS2版キャスト
メインキャラクター
緒方 光一郎(おがた こういちろう) 声:水島大宙(※ドラマCD版のみ)
本編の主人公。父「肇」、義理の母「美夏」とその連れ子「未央」との4人暮らし。(恋愛アドベンチャーゲームの主人公が両親と同居していることは少ない。)子供のころから両親の行き過ぎたイチャイチャぶりを見せ付けられてきたため、色恋沙汰の話が嫌いになってしまった。朝陽には尻に敷かれることが多い。父親の策略により恋愛授業の存在を知らぬまま愛嬌学園に入学してしまう。甘い物が苦手。
上条 朝陽(かみじょう あさひ) 声:平野響子/藤本教子
誕生日:10月1日(天秤座)。身長162cm。血液型:B型。3サイズ:87(D)/56/88。
光一郎の幼馴染。光一郎のことを「コウ」と呼ぶ。気が強く、寝起きの悪い光一郎に電気あんまを食らわせることも多い。しかしその一方でやや照れ屋でもあり、恥ずかしくなると赤面することもある。ロマンティックな恋に憧れており、恋愛授業には期待している。甘い物が好物で、特にチョコレートは光一郎に「チョコレートジャンキー」とよばれるほど大好き。余談だが、長野電鉄長野線に上条駅と朝陽駅が存在する。
緒方 未央(おがた みお) 声:桜川未央/小林眞紀
誕生日:2月20日(魚座)。身長150cm。血液型:O型。3サイズ:80(B)/53/81。
光一郎の義理の妹。小柄な体型だが光一郎とは同い年でクラスも同じ。大人しい性格で、気が弱く泣き虫。光一郎のことが大好きで一生懸命に尽くそうとする健気な少女。学園では演劇部に所属。
多賀谷 麻里乃(たがや まりの) 声:越智悠/大垣理香
誕生日:7月30日(獅子座)。身長153cm。血液型:B型。3サイズ:78(A)/52/80。
愛嬌学園の付属校3年生で光一郎たちの後輩。かつては金持ちの令嬢だったが父の会社の倒産によって、彼女自身がアルバイトをしなければならないほどの貧乏生活を送っている。プライドが高く「?ですわ」などお嬢様語を話す。付属校とも合同で実施される恋愛授業には嫌々ながら参加。実は男性恐怖症。
前園・Clarissa・皐(まえぞの・クラリッサ・さつき) 声:桃井いちご/大久保藍子
誕生日:1月23日(水瓶座)。身長160cm。血液型:A型。3サイズ:85(C)/57/86。
愛嬌学園2年の先輩。イタリア人の父と日本人の母との間に生まれたハーフで愛称はクレア。昨年母方の祖母を頼って日本に渡ってきた。休日は母の実家である商店街の花屋を手伝っている。おしとやかで心優しく言葉遣いなども丁寧で、学園のみならず町内のアイドル的存在。花の世話をするのが好きで、ガーデニングクラブに所属。老人ホームへの慰問もよく行っている。
七里 由馬(しちり ゆま) 声:こいでりこ/足立友
誕生日:5月2日(牡牛座)。身長162cm。血液型:AB型。3サイズ:90(E)/58/90。
学園3年の先輩。愛嬌学園がまだ女子校だったころからの生徒で「お嬢組」と呼ばれている。しかし食べ物の好みなどは庶民的であり、その上かなりの大食らい。いつも無口・無表情で不可解な行動をとり、たまに口を開いても毒舌がほとんど。薙刀部所属で全国レベルの実力を持つが、試合へのやる気は出ない。

サブキャラクター
緒方 肇(おがた はじめ) 声:本多啓吾/高橋伸也
誕生日:3月23日(牡羊座)。身長175cm。血液型:O型。
光一郎の父親。小さな会社を経営しているらしいが、なぜか帰宅時刻はいつも光一郎より早い。毎日毎日飽きもせずに愛の素晴らしさを力説しており、そのせいで光一郎からは邪魔者扱いされている。喧嘩や感動でエキサイトすると拡声器で近所に触れ回ろうとするが、近隣住民もこれに慣れているようである。
緒方 美夏(おがた みなつ) 声:九条信乃/後藤邑子
誕生日:5月18日(牡牛座)。身長161cm。血液型:A型。3サイズ:88(E)/57/89。
未央の実の母親で光一郎の義母。未央の姉と見間違うほどに若く美しい。光一郎と未央がまだ幼い頃に肇と出会い再婚した。
篠崎 政則(しのざき まさのり) 声:門戸開/大畑伸太郎
誕生日:1月3日(山羊座)。身長178cm。血液型:A型。
光一郎の男友達。体が大きく頭はスキンヘッドにしており見た目は不良かヤクザのようであるが、実は極度のシスコン・ロリコンであり幼い妹「こより」のことを溺愛している。己の本能のままに行動する直情型。そのため女子から嫌われているため恋愛授業のパートナーはいつも薫。
篠崎 こより(しのざき こより) 声:神月あおい/亜城めぐ
誕生日:2月16日(水瓶座)。身長131cm。血液型:B型。3サイズ:66(AA)/51/70。
政則の妹。外見は幼く可愛らしいが性格はかなりませている。実の兄である政則のことが大嫌いでゴミのようにしか思っていない。
光一郎の恋人の座を虎視眈々と狙っている。
中西 薫(なかにし かおる) 声:青山ゆかり/友永朱音
誕生日:8月21日(獅子座)。身長162cm。血液型:O型。
政則と同じく、光一郎の友人である少年。小柄な体型と大人しく控えめな性格に加え女の子のような可愛らしい顔立ちをしており、学園の女生徒たちから注目されている。
あるルートでは女子の制服を着せられて恋愛授業に出ている。本人は嫌がっているものの文句のつけようがないくらいに似合っている。
雷堂 苺(らいどう いちご) 声:まきいづみ/やなせなつみ
誕生日:1月5日(山羊座)。身長165cm。血液型:O型。3サイズ:92(F)/56/88。
光一郎のクラスの担任教師で恋愛授業クラスの担当でもある。言葉遣いが乱暴で怒るとすぐ薙刀を振り回す熱血教師。恋愛授業への情熱は誰よりも高いが当の本人は異性にあまり免疫がない。由馬の所属する薙刀部の顧問でもある。恋愛授業では主に男子生徒を指導する。PS2版で攻略可能ヒロインに昇格。
紅林 司(くればやし つかさ) 声:かわしまりの/瑞沢渓
誕生日:3月3日(魚座)。身長165cm。血液型:A型。3サイズ:ひみつ。
苺と同じ愛嬌学園の教師。いつも和服姿で行動している。苺と違ってとても落ちついた性格。容姿や言動は女性のようだが性別は男。苺とは昔からの知り合い同士で、頭に血が上りやすい彼女と対等に渡り合える。恋愛授業では主に女子生徒を指導する。未央が所属する演劇部の顧問を務めている。
クレアルートで女子寮の寮母も務めていることが判明する。それに加え、よく保健医の代わりに保健室にいることが多い。
矢野 弘子(やの ひろこ) 声:吹雪桜/生天目仁美
誕生日:11月29日(射手座)。身長156cm。血液型:A型。3サイズ:79(A)/53/82。
麻里乃の女子寮でのルームメイトで親友同士。眼鏡をかけている。地味で庶民的な印象からか麻里乃とは仲がよく、互いに「まりりん」「ぴろ子」と呼び合っている。
皇城 椋子(すめらぎ りょうこ) 声:青山ゆかり/友永朱音
誕生日:7月14日(蟹座)。身長158cm。血液型:A型。3サイズ:83(B)/56/84。
クレアルートに登場。クレアとはクラスは違うが同級生。のちに恋愛授業では同じクラスメートになる。明るく活発な性格で友人も多いが、なぜかクレアのことはよく思っていないらしい。苺と同様、PS2版で攻略可能となる。
多賀谷 真奈(たがや まな) 声:かわしまりの/瑞沢渓
誕生日:11月27日(射手座)。身長110cm。血液型:A型。3サイズ:打倒お姉。
麻里乃の妹で多賀谷三兄弟の末っ子。麻里乃と同じく負けん気が強い。
多賀谷 護(たがや まもる) 声:まきいづみ/やなせなつみ
誕生日:10月24日(蠍座)。身長140cm。血液型:B型。
麻里乃の弟。まだ幼くやんちゃだが麻里乃や妹の真奈のことを大切に想っている。
西園寺 三孝(さいおんじ みつたか) 声:本多啓吾/高橋伸也
誕生日:8月29日(牡羊座)。身長168cm。血液型:AB型。
名門「西園寺」家の御曹司。とある目的から愛嬌学園に編入してくる。高慢で権力を振りかざす典型的なお坊ちゃま。
下柳 港(しもやなぎ みなと) 声:北都南/ひと美
誕生日:9月18日(乙女座)。身長160cm。血液型:AB型。3サイズ:87(E)/59/89。
西園寺家に仕えるメイドの少女。三孝の世話係であるが仕事嫌いでまともに彼の面倒をみようとしない。単なる給料泥棒。

2009年01月27日

量産型Su-9にはRP-9Uレーダー・ステーション

量産型Su-9にはRP-9Uレーダー・ステーションが搭載され、これにより新型のRS-2US(K-5MS)空対空ミサイルの運用が可能とされていた。しかしながら、RS-2USはそれまでのMiG-19PMなどに搭載されていたRS-1U(K-5)とあまり変わり映えのしない装備であり、搭載する数量も4 発と同じであった。運用能力は増したとはいえ、新型の迎撃戦闘機がこれら能力不足のMiG-19PMなどと同程度の攻撃兵器しか搭載しないのでは、Su-9の実戦運用に限界が生じることは目に見えていた。RS-2USはビームライディング誘導される1950年代当時としては先進的な技術を持った空対空ミサイルであった。また、サイドワインダーのような細身のミサイルよりも弾体の破壊力はずっと大きなものであった。しかしながら、機体が小型で航続距離が不十分であること、ビームライディング誘導技術の限界、それらと関連して射程に不足があることなどの欠点を持っていた。Su-9の攻撃範囲は、戦略爆撃機を目標とした場合18 - 22 kmまでの目標を補足でき、RS-2USは高度10 kmまでの空域で10 kmの射程を持っていた。この高度の場合、目標を機の上空2000 m以内に収めねばならなかった。のち、RS-2USを赤外線誘導方式に変更したR-55(Р-55)も開発されSu-9でもRS-2USと併用されるようになったが、これによっても大幅に攻撃力が増すには至らならなかった。ただ、レーダー誘導方式の長距離ミサイルと赤外線誘導方式の短距離ミサイルを同型ミサイルの派生型として搭載するというソ連防空軍の伝統的な装備は、ここに始められたともいえる。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう

TsD-30T/RP-9Uレーダー・ステーションを搭載するSu-9は、ビームライディング誘導装置である「ラズーリ」(Лазурь:「瑠璃色」)を搭載する機体相互を連関させる自動誘導装置「ヴォーズドゥフ1」を搭載していた。これらの装備は、遅れて開発の始められたMiG-21の全天候型MiG-21P/PFにも搭載された。ただし、MiG-21ではTsD-30TレーダーはRP-21「サプフィール」(РП-21 Сапфир:「сапфир」は「サファイア」のこと)の名称で制式採用された。このレーダーは、「サプフィール21」(Сапфир-21)とも呼ばれた。同等のレーダー・ステーションが前線戦闘機にも搭載されたことでSu-9の相対的な価値の低下が生じたが、その他の防空システムを搭載する容量に関しては機体容積の大きなSu-9が有利であった。

無線ナビゲーション及び通信装置は、通信超短波ステーションRSIU-4V(РСИУ-4В)、KKO-2セットに含まれる高高度用通信装置、自動無線方位計(コンパス)ARK-5(АРК-5)、マーカー無線受信装置MTP-56P(МРП-56П)、計器離着陸(盲目離着陸)用の電波探知システムRSP-6(РСП-6)の無線応答器SOD-57M(СОД-57М)、機上コマンド誘導装置ARL-S「ラズーリ」(АРЛ-С Лазурь)、敵味方識別装置「クレームニイ2M」(Кремний-2М:「кремний」は「珪素」のこと)の応答機SRZO-2M(СРЗО-2М)が搭載された。

Su-9の飛行する高高度空域では夏でも外気の温度が真冬のシベリアよりもさらに寒冷になるため、乗員を酷寒から保護するための設備が必要不可欠であった。Su-9に搭載される空調システムは、乗員の精力的に活動できる条件を確保するものと期待された。空気はコンプレッサーの5または7段階から選択され、プログラムされた圧力レベルはARD-57V(АРД-57В)調節装置(レギュレーター)から供給された。TRTVK-45M(ТРТВК-45М)恒温器(サーモスタット)に与えられていた温度レベルは、+10℃から+20℃であった。空気は、風防ガラスが曇るのを予防するため、ガラスの嵌められた面の集電器越しに操縦室内へ入るようになっていた。高高度における飛行や操縦室の気密に際するパイロットの酸素の確保のため、KM-ZOM(КМ-ЗОМ)酸素マスクとKP-34(КП-34)とパラシュート降下用のKP-27M(КП-27М)酸素装置から成る酸素装置セットKKO-2(ККО-2)と低高度用レダクター・システムのボンベが搭載された。高高度用の与圧服は、GSh-4M(ГШ-4М)付属のVKK-ZM(ВКК-ЗМ)が用意された。

生産
Su-9は、1957年から1962年の間にヴァレーリイ・パーヴロヴィチ・チュカーロフ記念ノヴォシビールスク第153工場で各種派生型を含め888機、1959年から1961年の間にモスクワ第30工場「ズナーミャ・トルダー」(「労働の旗」の意味;現在のP・デメーンチエフ記念MAPO)で量産型129機が生産された。Su-9は合わせて1000機以上が生産・配備され、防空軍の新しい主力迎撃戦闘機となった。なお、量産の開始時期が機体の完成時期よりもかなり早くなっているのは、当時のソ連のシステムによるものである。当時、ソ連では試験段階で将来の有望性が確かめられれば開発試験の完了を待たず生産体制が準備されるというのが通例で、その後の変更点は機体が生産されてから改修という形で適用されていくというのが通常のスタイルであった。他の例を挙げれば、姉妹機であるSu-7も生産開始の指示が出されたのは1956年であったのに対し開発試験が完了したのは1958年末のことであった。また、MiG-15に到っては開発が完了したのは早くても機体名称も変わったMiG-17Fになってからのことで、つまり朝鮮戦争時にはいまだ開発段階にあった機体が最前線へ投入されていたということになるのである。これが、欧米諸国に一歩たりとも遅れをとるまいとして新型装備の増備を急いだソ連のスタイルであった。

Su-9U
1960年にはT-43を複座化した練習戦闘機としてU-43(У-43)が開発され、1961年から1962年まで工場試験および国家試験が行われた。試験成績は良好であったことから1961年からは第30工場で量産化に入り、Su-9U(Су-9У)として部隊配備された。Su-9Uは50機が生産されたとされる。Su-9Uには戦闘機型と同様の機器が搭載されており、戦闘訓練に使用された。NATOはSu-9Uに対して「メイデン」(Maiden:「処女」)というコードネームを付与した。

発展
Su-9の改良作業はその後も継続して行われ、エンジンは当初のAL-7F-1からAL-7F1-100、AL-7F1-150、AL-7F1-200へと改良されていった。Su-9ではSu-7シリーズと同じく射出座席はKS(КС)シリーズが搭載されていたが、これも初期のKS-1から改良型のKS-2に換装された。KS-2は最大速度1000 km/hまでの速度域で使用可能で、下限は高度150 mにおいて500 km/hで安全に射出が可能とされた。さらにのちには、改良型のKS-2a、またさらに改良されたKS-3が搭載された。搭載武装は、当初はRS-2USコマンド誘導ミサイルを4発であったが、のちにはRS-2USを2発とその派生型であるR-55赤外線誘導ミサイルを2発という組み合わせが基本装備となった。それに合わせ、搭載するレーダー・ステーションはRP-9UからR-55を運用可能なRP-9UK(РП-9УК)に変更された。また、Su-9は他の多くの迎撃戦闘機の例に漏れず固定武装として機関砲を装備しなかったが、偵察気球などの迎撃に大きな効力を発揮する機関砲も必要であるとして汎用機関砲コンテナーUPK-23-250(УПК-23-250)が搭載できるよう改修された。その他、多くの電子機器が徐々に新しいより性能の高いものへと換装されていった。また、機内燃料タンクにも改良が加えられ、外部にも増槽を搭載できるように改修された。搭乗員の与圧服も新しいものへ変更されていった。

また、Su-9からは「空飛ぶ研究所」(?Летающая лаборатория?リターユシャヤ・ラバラトーリヤ)と呼ばれる多くの研究機も開発された。さまざまな技術が未画定であった1960年代にあって、開発面でもSu-9は大きな業績を残したといえる。これらの研究成果から、Su-15迎撃戦闘機やT-4「ソートカ」超音速爆撃機などが生み出された。

運用
Su-9は全天候迎撃機としては能力の不足していたMiG-17やMiG-19を代替し、まず首都モスクワやバクー油田などの重要地点の防備部隊から配備が開始された。その他には、Su-9は主としてソ連の北辺の防備と中央アジア方面の防備に就いた。

具体的には、Su-9の最初の部隊配備はカスピ海沿トルクメニスタンのクラスノヴォーツク、ウクライナ オデッサ州のオズョールノエとリヴィウ州のストルィーイ、ベラルーシブレスト州のバラーノヴィチ、ロシア北方ムールマンスク近郊のキルプ=ヤーヴル、ウズベキスタンのカルシーの各飛行場へなされた。部隊は各都市間の防空の任に就いた。実のところは、最初の量産機は航続距離の不足のせいでこれらの飛行場の間を巡回することで防空任務を遂行するよりほかなかったのである。これらの飛行場は互いに1000 km以内の距離に置かれており、東シベリアや極東地方のような基地間の距離の長い地帯の防空の問題は解決されなかった。その後もSu-9の増備は続けられたが、この問題が解決されるのは1960年代末より始められたTu-128の配備まで待たねばならなかった。

ウラル山脈西側の都市ペルミの部隊に配備されたSu-9のうちの1機は、受領間もない1960年5月1日、領空を侵犯して飛来したアメリカ中央情報局(CIA)の偵察機U-2の迎撃を命ぜられた。アメリカは、まだ配備の始まって間もないSu-9の能力を十分に把握しておらず、ソ連軍迎撃戦闘機の攻撃をまったくといっていいほど警戒していなかったようである。そのため、U-2は悠々とソ連領土上空を飛行していた。一方、新鋭機であったSu-9は機上レーダーがまだ稼動状態になかったため地上からの厳密な誘導のもと侵犯機の迎撃に上がったが、結局目標を発見できなかったとされる。また、Su-9は本来MiG-19などと違い十分にU-2を迎撃できる能力をもっていたが、このとき機にはまだ武装が到着していなかった。そのため、Su-9のパイロットは体当たりで侵犯機を撃墜するよう命ぜられていたが、身重の妻のあったパイロットはそれをためらってU-2の発見を報告しなかったのではないかという憶測もある。ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョーフはのちに「我が国の防空部隊は惰眠を貪っていた」と批判しているが、それまで一度もU-2の迎撃に成功したことのなかった防空軍の立場は相当厳しいところにあったと思われる。そのためもありペルミの上官は非理性的な命令を下したと思われるが、結局このU-2は防空ミサイルによって撃墜された。これは一般に「U-2撃墜事件」として知られている。U-2を撃墜したのはSu-9であるという説もあったが、Su-9は迎撃には上がったものの撃墜するには到っていないというのが実際のところのようである。

その後、Su-9ではRS-2USを搭載しての迎撃戦闘訓練が行われた。その目標は、アメリカ空軍の戦略爆撃機B-47とB-52、偵察機U-2、そして爆撃機から発射される大型の有翼空対地ミサイルAGM-28ハウンド・ドッグであった。RS-2USのSu-9での試験は地上目標に対しても実施された。1966年、第350戦闘飛行連隊のパイロットたちはバルハシ湖近くの演習場で地上目標への戦闘訓練を開始した。だが、やはりRS-2USは万能ミサイルにはなり得なかった。

実戦へのRS-2USの使用の実態は詳らかでないが、少なくとも1960年代末にSu-9が2機のイラン空軍戦闘機に対してRS-2USを発射している。しかし、Su-9の機上レーダーは接近しすぎた敵機を1機と捉えてしまい、発射されたミサイルは2機の擦り抜けてしまった。Su-9は目標を取り逃がした。また、1967年には第179護衛戦闘飛行連隊のSu-9が高度26 kmで自動偵察気球の迎撃を行った。Su-9は、高度22 kmに達した時点でRS-2USを発射した。ミサイルは、気球の長大な吊下部の下半部分を撃ち抜いた。その後、別の連隊のパイロットがこの気球に止めを刺した。

防空戦闘機の日常における最も重要な任務のひとつであった偵察気球の迎撃に関しては、初期の頃はこのようにミサイルを用いて攻撃を行っていた。防空軍の戦闘機は「ミサイル万能論」を受けて機関砲などの機上固定武装を搭載していなかったが、気球のような「軟らかい目標」に対してはミサイルでの攻撃は効率的ではなく、またそうした目標に使用するにはミサイルはあまりに高価であったため、のちに防空軍の戦闘機はUPK-23-250機関砲コンテナーが運用できるように改修されていった。この機関砲は汎用とされたが、主として気球の迎撃のために用意されたものであることはその運用実績からも明らかであった。UPK-23-250を搭載したSu-15TMやMiG-23MLDは、多数の軍用気球を撃墜した。Su-9もUPK-23-250を搭載するよう改修が施されたが、そのときはすでに就航時期の末期に差し掛かっていたため他機のような目立った活動は聞かれない。

Su-9の配備は各国へ輸出された姉妹機Su-7と異なり、ソ連国内のみになされた。ソ連では、高度なシステムを搭載する防空軍向け機材は国外不出というのが原則であった。例外としては輸出型MiG-25PDが挙げられるが、これは「ベレンコ中尉亡命事件」でMiG-25Pの搭載機材の情報がすべて西側へ漏れてしまったこと、その後この事件を受けてシステムを一新した国内向けMiG-25PDが開発されたことなどにより、輸出向けMiG-25PDの機体にはMiG-25P用の機材を搭載することにより輸出が許可されたものと考えられている。一方、Su-9は発展型のSu-11、Su-15とともに1機たりとも海外へ輸出されることはなかった。また、ソ連崩壊時にはSu-9はすでに旧式化して退役しており、ロシア、ベラルーシ 、ウクライナなど独立国家共同体諸国で運用されたSu-15と違い、各独立国で運用されることもなかった。Su-9は1970年代には第一線を退いた。退役時期は資料によるが、1963年から1966年にかけて退役したとする記述もある。一方、各種の改良作業を施して1980年代半ばまで運用されたとする資料もある。恐らくは、一部の部隊ではSu-9は1960年代にSu-11など他の機体に代替され、多くの機体は1970年代に退役し、残る一部は1980年代まで使用されたのであろう。また、標的機Su-9RM(Су-9РМ)に改修され最後の役目を果たした機体もあった。Su-9は大型で容積の大きい高速機であったことからさまざまな試験に重宝され、ソ連では迎撃戦闘機としてのみならず研究機としても重要な位置を占めていた。なお、Su-9は後継のSu-11に全機が代替されたとする記述も広く見られるが、Su-9に比べればごくわずかしか生産されなかったSu-11ではSu-9を代替するには足りず、実際にSu-9を退役に追いやったのは次のSu-15やMiG-25である。