量産型Su-9にはRP-9Uレーダー・ステーションが搭載され、これにより新型のRS-2US(K-5MS)空対空ミサイルの運用が可能とされていた。しかしながら、RS-2USはそれまでのMiG-19PMなどに搭載されていたRS-1U(K-5)とあまり変わり映えのしない装備であり、搭載する数量も4 発と同じであった。運用能力は増したとはいえ、新型の迎撃戦闘機がこれら能力不足のMiG-19PMなどと同程度の攻撃兵器しか搭載しないのでは、Su-9の実戦運用に限界が生じることは目に見えていた。RS-2USはビームライディング誘導される1950年代当時としては先進的な技術を持った空対空ミサイルであった。また、サイドワインダーのような細身のミサイルよりも弾体の破壊力はずっと大きなものであった。しかしながら、機体が小型で航続距離が不十分であること、ビームライディング誘導技術の限界、それらと関連して射程に不足があることなどの欠点を持っていた。Su-9の攻撃範囲は、戦略爆撃機を目標とした場合18 - 22 kmまでの目標を補足でき、RS-2USは高度10 kmまでの空域で10 kmの射程を持っていた。この高度の場合、目標を機の上空2000 m以内に収めねばならなかった。のち、RS-2USを赤外線誘導方式に変更したR-55(Р-55)も開発されSu-9でもRS-2USと併用されるようになったが、これによっても大幅に攻撃力が増すには至らならなかった。ただ、レーダー誘導方式の長距離ミサイルと赤外線誘導方式の短距離ミサイルを同型ミサイルの派生型として搭載するというソ連防空軍の伝統的な装備は、ここに始められたともいえる。
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TsD-30T/RP-9Uレーダー・ステーションを搭載するSu-9は、ビームライディング誘導装置である「ラズーリ」(Лазурь:「瑠璃色」)を搭載する機体相互を連関させる自動誘導装置「ヴォーズドゥフ1」を搭載していた。これらの装備は、遅れて開発の始められたMiG-21の全天候型MiG-21P/PFにも搭載された。ただし、MiG-21ではTsD-30TレーダーはRP-21「サプフィール」(РП-21 Сапфир:「сапфир」は「サファイア」のこと)の名称で制式採用された。このレーダーは、「サプフィール21」(Сапфир-21)とも呼ばれた。同等のレーダー・ステーションが前線戦闘機にも搭載されたことでSu-9の相対的な価値の低下が生じたが、その他の防空システムを搭載する容量に関しては機体容積の大きなSu-9が有利であった。
無線ナビゲーション及び通信装置は、通信超短波ステーションRSIU-4V(РСИУ-4В)、KKO-2セットに含まれる高高度用通信装置、自動無線方位計(コンパス)ARK-5(АРК-5)、マーカー無線受信装置MTP-56P(МРП-56П)、計器離着陸(盲目離着陸)用の電波探知システムRSP-6(РСП-6)の無線応答器SOD-57M(СОД-57М)、機上コマンド誘導装置ARL-S「ラズーリ」(АРЛ-С Лазурь)、敵味方識別装置「クレームニイ2M」(Кремний-2М:「кремний」は「珪素」のこと)の応答機SRZO-2M(СРЗО-2М)が搭載された。
Su-9の飛行する高高度空域では夏でも外気の温度が真冬のシベリアよりもさらに寒冷になるため、乗員を酷寒から保護するための設備が必要不可欠であった。Su-9に搭載される空調システムは、乗員の精力的に活動できる条件を確保するものと期待された。空気はコンプレッサーの5または7段階から選択され、プログラムされた圧力レベルはARD-57V(АРД-57В)調節装置(レギュレーター)から供給された。TRTVK-45M(ТРТВК-45М)恒温器(サーモスタット)に与えられていた温度レベルは、+10℃から+20℃であった。空気は、風防ガラスが曇るのを予防するため、ガラスの嵌められた面の集電器越しに操縦室内へ入るようになっていた。高高度における飛行や操縦室の気密に際するパイロットの酸素の確保のため、KM-ZOM(КМ-ЗОМ)酸素マスクとKP-34(КП-34)とパラシュート降下用のKP-27M(КП-27М)酸素装置から成る酸素装置セットKKO-2(ККО-2)と低高度用レダクター・システムのボンベが搭載された。高高度用の与圧服は、GSh-4M(ГШ-4М)付属のVKK-ZM(ВКК-ЗМ)が用意された。
生産
Su-9は、1957年から1962年の間にヴァレーリイ・パーヴロヴィチ・チュカーロフ記念ノヴォシビールスク第153工場で各種派生型を含め888機、1959年から1961年の間にモスクワ第30工場「ズナーミャ・トルダー」(「労働の旗」の意味;現在のP・デメーンチエフ記念MAPO)で量産型129機が生産された。Su-9は合わせて1000機以上が生産・配備され、防空軍の新しい主力迎撃戦闘機となった。なお、量産の開始時期が機体の完成時期よりもかなり早くなっているのは、当時のソ連のシステムによるものである。当時、ソ連では試験段階で将来の有望性が確かめられれば開発試験の完了を待たず生産体制が準備されるというのが通例で、その後の変更点は機体が生産されてから改修という形で適用されていくというのが通常のスタイルであった。他の例を挙げれば、姉妹機であるSu-7も生産開始の指示が出されたのは1956年であったのに対し開発試験が完了したのは1958年末のことであった。また、MiG-15に到っては開発が完了したのは早くても機体名称も変わったMiG-17Fになってからのことで、つまり朝鮮戦争時にはいまだ開発段階にあった機体が最前線へ投入されていたということになるのである。これが、欧米諸国に一歩たりとも遅れをとるまいとして新型装備の増備を急いだソ連のスタイルであった。
Su-9U
1960年にはT-43を複座化した練習戦闘機としてU-43(У-43)が開発され、1961年から1962年まで工場試験および国家試験が行われた。試験成績は良好であったことから1961年からは第30工場で量産化に入り、Su-9U(Су-9У)として部隊配備された。Su-9Uは50機が生産されたとされる。Su-9Uには戦闘機型と同様の機器が搭載されており、戦闘訓練に使用された。NATOはSu-9Uに対して「メイデン」(Maiden:「処女」)というコードネームを付与した。
発展
Su-9の改良作業はその後も継続して行われ、エンジンは当初のAL-7F-1からAL-7F1-100、AL-7F1-150、AL-7F1-200へと改良されていった。Su-9ではSu-7シリーズと同じく射出座席はKS(КС)シリーズが搭載されていたが、これも初期のKS-1から改良型のKS-2に換装された。KS-2は最大速度1000 km/hまでの速度域で使用可能で、下限は高度150 mにおいて500 km/hで安全に射出が可能とされた。さらにのちには、改良型のKS-2a、またさらに改良されたKS-3が搭載された。搭載武装は、当初はRS-2USコマンド誘導ミサイルを4発であったが、のちにはRS-2USを2発とその派生型であるR-55赤外線誘導ミサイルを2発という組み合わせが基本装備となった。それに合わせ、搭載するレーダー・ステーションはRP-9UからR-55を運用可能なRP-9UK(РП-9УК)に変更された。また、Su-9は他の多くの迎撃戦闘機の例に漏れず固定武装として機関砲を装備しなかったが、偵察気球などの迎撃に大きな効力を発揮する機関砲も必要であるとして汎用機関砲コンテナーUPK-23-250(УПК-23-250)が搭載できるよう改修された。その他、多くの電子機器が徐々に新しいより性能の高いものへと換装されていった。また、機内燃料タンクにも改良が加えられ、外部にも増槽を搭載できるように改修された。搭乗員の与圧服も新しいものへ変更されていった。
また、Su-9からは「空飛ぶ研究所」(?Летающая лаборатория?リターユシャヤ・ラバラトーリヤ)と呼ばれる多くの研究機も開発された。さまざまな技術が未画定であった1960年代にあって、開発面でもSu-9は大きな業績を残したといえる。これらの研究成果から、Su-15迎撃戦闘機やT-4「ソートカ」超音速爆撃機などが生み出された。
運用
Su-9は全天候迎撃機としては能力の不足していたMiG-17やMiG-19を代替し、まず首都モスクワやバクー油田などの重要地点の防備部隊から配備が開始された。その他には、Su-9は主としてソ連の北辺の防備と中央アジア方面の防備に就いた。
具体的には、Su-9の最初の部隊配備はカスピ海沿トルクメニスタンのクラスノヴォーツク、ウクライナ オデッサ州のオズョールノエとリヴィウ州のストルィーイ、ベラルーシブレスト州のバラーノヴィチ、ロシア北方ムールマンスク近郊のキルプ=ヤーヴル、ウズベキスタンのカルシーの各飛行場へなされた。部隊は各都市間の防空の任に就いた。実のところは、最初の量産機は航続距離の不足のせいでこれらの飛行場の間を巡回することで防空任務を遂行するよりほかなかったのである。これらの飛行場は互いに1000 km以内の距離に置かれており、東シベリアや極東地方のような基地間の距離の長い地帯の防空の問題は解決されなかった。その後もSu-9の増備は続けられたが、この問題が解決されるのは1960年代末より始められたTu-128の配備まで待たねばならなかった。
ウラル山脈西側の都市ペルミの部隊に配備されたSu-9のうちの1機は、受領間もない1960年5月1日、領空を侵犯して飛来したアメリカ中央情報局(CIA)の偵察機U-2の迎撃を命ぜられた。アメリカは、まだ配備の始まって間もないSu-9の能力を十分に把握しておらず、ソ連軍迎撃戦闘機の攻撃をまったくといっていいほど警戒していなかったようである。そのため、U-2は悠々とソ連領土上空を飛行していた。一方、新鋭機であったSu-9は機上レーダーがまだ稼動状態になかったため地上からの厳密な誘導のもと侵犯機の迎撃に上がったが、結局目標を発見できなかったとされる。また、Su-9は本来MiG-19などと違い十分にU-2を迎撃できる能力をもっていたが、このとき機にはまだ武装が到着していなかった。そのため、Su-9のパイロットは体当たりで侵犯機を撃墜するよう命ぜられていたが、身重の妻のあったパイロットはそれをためらってU-2の発見を報告しなかったのではないかという憶測もある。ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョーフはのちに「我が国の防空部隊は惰眠を貪っていた」と批判しているが、それまで一度もU-2の迎撃に成功したことのなかった防空軍の立場は相当厳しいところにあったと思われる。そのためもありペルミの上官は非理性的な命令を下したと思われるが、結局このU-2は防空ミサイルによって撃墜された。これは一般に「U-2撃墜事件」として知られている。U-2を撃墜したのはSu-9であるという説もあったが、Su-9は迎撃には上がったものの撃墜するには到っていないというのが実際のところのようである。
その後、Su-9ではRS-2USを搭載しての迎撃戦闘訓練が行われた。その目標は、アメリカ空軍の戦略爆撃機B-47とB-52、偵察機U-2、そして爆撃機から発射される大型の有翼空対地ミサイルAGM-28ハウンド・ドッグであった。RS-2USのSu-9での試験は地上目標に対しても実施された。1966年、第350戦闘飛行連隊のパイロットたちはバルハシ湖近くの演習場で地上目標への戦闘訓練を開始した。だが、やはりRS-2USは万能ミサイルにはなり得なかった。
実戦へのRS-2USの使用の実態は詳らかでないが、少なくとも1960年代末にSu-9が2機のイラン空軍戦闘機に対してRS-2USを発射している。しかし、Su-9の機上レーダーは接近しすぎた敵機を1機と捉えてしまい、発射されたミサイルは2機の擦り抜けてしまった。Su-9は目標を取り逃がした。また、1967年には第179護衛戦闘飛行連隊のSu-9が高度26 kmで自動偵察気球の迎撃を行った。Su-9は、高度22 kmに達した時点でRS-2USを発射した。ミサイルは、気球の長大な吊下部の下半部分を撃ち抜いた。その後、別の連隊のパイロットがこの気球に止めを刺した。
防空戦闘機の日常における最も重要な任務のひとつであった偵察気球の迎撃に関しては、初期の頃はこのようにミサイルを用いて攻撃を行っていた。防空軍の戦闘機は「ミサイル万能論」を受けて機関砲などの機上固定武装を搭載していなかったが、気球のような「軟らかい目標」に対してはミサイルでの攻撃は効率的ではなく、またそうした目標に使用するにはミサイルはあまりに高価であったため、のちに防空軍の戦闘機はUPK-23-250機関砲コンテナーが運用できるように改修されていった。この機関砲は汎用とされたが、主として気球の迎撃のために用意されたものであることはその運用実績からも明らかであった。UPK-23-250を搭載したSu-15TMやMiG-23MLDは、多数の軍用気球を撃墜した。Su-9もUPK-23-250を搭載するよう改修が施されたが、そのときはすでに就航時期の末期に差し掛かっていたため他機のような目立った活動は聞かれない。
Su-9の配備は各国へ輸出された姉妹機Su-7と異なり、ソ連国内のみになされた。ソ連では、高度なシステムを搭載する防空軍向け機材は国外不出というのが原則であった。例外としては輸出型MiG-25PDが挙げられるが、これは「ベレンコ中尉亡命事件」でMiG-25Pの搭載機材の情報がすべて西側へ漏れてしまったこと、その後この事件を受けてシステムを一新した国内向けMiG-25PDが開発されたことなどにより、輸出向けMiG-25PDの機体にはMiG-25P用の機材を搭載することにより輸出が許可されたものと考えられている。一方、Su-9は発展型のSu-11、Su-15とともに1機たりとも海外へ輸出されることはなかった。また、ソ連崩壊時にはSu-9はすでに旧式化して退役しており、ロシア、ベラルーシ 、ウクライナなど独立国家共同体諸国で運用されたSu-15と違い、各独立国で運用されることもなかった。Su-9は1970年代には第一線を退いた。退役時期は資料によるが、1963年から1966年にかけて退役したとする記述もある。一方、各種の改良作業を施して1980年代半ばまで運用されたとする資料もある。恐らくは、一部の部隊ではSu-9は1960年代にSu-11など他の機体に代替され、多くの機体は1970年代に退役し、残る一部は1980年代まで使用されたのであろう。また、標的機Su-9RM(Су-9РМ)に改修され最後の役目を果たした機体もあった。Su-9は大型で容積の大きい高速機であったことからさまざまな試験に重宝され、ソ連では迎撃戦闘機としてのみならず研究機としても重要な位置を占めていた。なお、Su-9は後継のSu-11に全機が代替されたとする記述も広く見られるが、Su-9に比べればごくわずかしか生産されなかったSu-11ではSu-9を代替するには足りず、実際にSu-9を退役に追いやったのは次のSu-15やMiG-25である。